蝉レンジ

それは、去年の夏の最後の一番暑い日のことだった。その日は朝から暑くて、昨日夜更かしてさっき寝たばかりなのに起きてしまって、自炊した朝ご飯を、ご飯だけ食べて、私は二度寝をしようとしていた。日は既に高く昇ってしまった、外が眩しく明るい。白すぎる。家の中が深緑色にみえる。ジジジーと蝉の声がしている。一匹や二匹ではないようだ。随分近いところで、鳴きさかっているようだ。窓に壁に張り付いているようだ。開けておいても、涼しくなることは全くなさそうだったので、窓を閉め、クーラーをつけた。クーラーの音で、蝉の声が遠ざかる。思いっきり強冷にしておく。冷蔵庫に行き、500ccのグリーンメタリックの目出度いおビール様をガシっとあけて、ぐいぐい飲む。冷たい飲み物がそれしかないのだ、勿体ないが、仕方あるまい、都合良く妻子は実家に帰省中だし、会社も休み、誰に止められようか。いや、今日みたいな日に飲まなくては勿体ないところだった。おおお何だか、いつもより早めにアルコールが回ってきた。ビールであるビールのほうが、ビールでないビールよりも、おいしいというより、より酔う。そんな気がするな。アルコール自体よりも、値段とか税金に対して、より酔うらしい。そんなことを考えつつ、歯を磨かないといけないな、とも思ったが、そのまま湿った布団に倒れこんだ。さっきまで暑くまとわりつくだけだった、タオルケットがクーラーで冷やされ、程よく体を冷やしてくれる、冷たさが染み込んでくるようだった。
気がつくと、いつの間にか寝込んでいた、寒くて目を覚ました。目は動くが、体が動かないみたいだった。金縛りなのか。金縛り状態には慣れっこだし、夜でもないので幽霊とかの心配もあまりないと思うので、きかぬわっと覇王の気分で体を動かそうとする。全く動かない。いつもなら、どこか動くところがあるのだが。全身がつったようになって、びくびくと痙攣しながら震えている。おかしい。そして寒い。クーラーが効き過ぎている。このままだと、凍え死んでしまうような気がしてきた。夏なのに。外では蝉が鳴いているのに。いや、鳴いていない、全く聞こえない。おかしい、クーラーの音もしない。何だか目を開けているのに、暗くなってきた。体中の痙攣と痛み、冷や汗というには余りに多すぎる液体で、タオルケットがべたべたヌルネルになっている感触だけは、せめて生きているという実感を与えるためにか、いや、これからこのようなざまで、人一人が死んでいくという感覚を私に与えるためにか、はっきりと感じられる。私の体が命令をきかないで動かないまま、暴走しているのだ。そういえば、昔、夏の図書館で勉強するとか言って、人気のない静かな涼しい広間の机で、うたた寝をしていた時、こんなことがあったのを思い出した。あの時も死ぬかと思ったのだった。どうやっても体を動かせないという、恐怖、驚き、痛みから私を解放してくれたのは、見回りをしていた図書館の係りの人だった。もう閉館時間ですよ、という声で、私は自分が机に突っ伏していることに、気付いたのだった。今日はどうだろう、妻子は都合が悪いことに帰省中だ。人が来る予定などない。生きているうちに、誰かが私を起こしてくれるのだろうか。
どのくらいそうしていたのだろう。急に蝉の声が聞こえてきた。一匹や二匹ではないようだ。びっしりと。壁と窓とクーラーの室外機に、びっしりと張り付いているのではないかという大音声だ。蝉の声で窓ガラスが割れてしまうのではないか。蝉の声はだんだんと、それでもまだまだ大きくなってくる。音の波を感じるようだ。部屋の空気がびりびり震え、大きな音の波が右と左、あちこちから、乱暴に伝わってきて、交差し重なり合う。大きなスピーカーの、振動板の肉眼では見えないくらいに震えている部分に乗っかっている気分になってきた。体中、耳の中までびりびり震えている。蝉の声が夏の暑さを私に思い出させる。そうそう、暑苦しい。体がほのかに暖かくなってきた気がする、すると急に蝉の声が遠くなり、私はとうとう、腕を持ち上げ、腕の力を抜き、重力によってバタンと布団の外の畳まで打ち下ろさせ、と同時に寝返りを打つことに成功し、目を覚ました。
やっぱり寝ていたのだ。外で蝉の声がしている。クーラーも何事もなく動いている。寒い。冷やしすぎたようだ。寒いにもかかわらず、タオルケットもシーツも水を打ったように濡れており、これは私の寝汗、冷や汗と、倒したビールの残りであるらしかった。あああ、シーツは替えるとして、布団を干さないと今晩寝る布団がないぞ、と思い窓を開けると、外のただれた熱気が、電子レンジの扉を開けた時のように、部屋に入り込んできた。いつ潜り込んだのか、網戸の内側にアブラゼミが張り付いていた。網戸を開けるとジジジといって、暑いほうへ飛んで行った。