んナウーシカぁのこと

ナウシカのことを書こう。知ろうが知るまいが、ナウシカの影響を受けていない日本人などいない。ナウシカに出会ったのは、小五~中一の頃ではっきりとした時期はググればわかることではあるが、よく覚えていない。ナウシカというキャラよりも、映画の宣伝に出ていた、王蟲が伸びながら這う姿や、重厚な飛行機の姿に惹かれていた。まねして、紙粘土で王蟲に似たサムシングビーイングを作ったものだ。そして映画かテレビ放映を見た同級生あたりから、「安田成美の歌が流れなかったのでだめだ」とかいう批評を聞いて、そんなことが君は重要なのかと思っていた。その後、忘れもしない中二の7月25日、たぶん二回目のテレビ放映でナウシカに再会し(これはラピュタの宣伝だったのろう)、決定的な恋煩いというか、中二病というかに罹患した。それ以来長い事、好きなタイプはと聞かれると、本当はナウシカなんだけど、あまりにもそれはイタ恥ずかしいので、足がまっすぐできれいだとか、走るととにかく速いだとか、ビアンカ=パノバとか言い続けていた。隠れ急進ナウシカ主義者だった。もちろん今も強くてきれいなお姉さんは好きだけど、いくらかは落ち着いたので言うならば、寛容なナウシカ主義者だろう。ロシヤの陸上フィールド選手たちや新体操など、特にイシンバエヤの神に愛されているとしか思えないパフォーマンスを見ると、ドキドキするし、あのナウシカを思い出す。将来ドーラみたいになるんだろうね。
ナウシカに会いたくてアニメージュを弟をだまくらかして買わせ、連載が中断される度に嘆き、ノートにナウシカらしき何かを書き、ナウシカの映画に流れている曲を手に入れたくて、父親のクラッシックレコードを聴きあさった、ホルストはあったが、ヒサイシはなかった。当時はビデオは家になかったので、テレビ放映の時に録音していたテープを繰り返し聴いていた。ピアノが弾けたらどんなにいいことかと思っていた。サントラのテープを手に入れたのは中三の頃、アレンジが劇場版とは違うので納得いかなかった。ビデオを買ったのは高二の頃、14,000円位したが友人に馬鹿にされつつ買った。本当〜に馬鹿にされたし、今思えば馬鹿だったと思うが、この出費により私のナウシカ熱はいくらか沈静化されたので、犯罪等起こさないためには必要だったのだろう。

映画版のナウシカは暴走ナウシカというか、神がかりナウシカというか、マンガ版の宮崎駿にコントロールされているナウシカとは違う。マンガ版のほうは初期と後期で作者自身の自然と人間の関係に対する思いが若干変わってきているからだろうと思うが、終始一貫した思想人格を持っているわけではない、悩んでいる、それはもちろん人間としては自然なことであるから、凡人ナウシカであり故に神聖ではない。いまの私はマンガ版のちょっと過激でやっていることは逆にエスパーで人間離れした凡人ナウシカも、まあ好きですけど、中二の頃の私は、ゆらぎのない確信犯的な救世主然とした現人神ナウシカにぞっこん恋してましたので、マンガ版のナウシカには違和感を感じていたのです。
劇場版ナウシカでは、最後生き返って?老女により救世主認定される。そしてそこにいた人や蟲がなんだか分かり合う、大団円で終わる。一応あれで完結しているわけだが、エンドロールの向こうでは、まだまだ救世主続けますよ、どんな自然であれ自然は間違えません、自然の代表者たるナウシカが世界を救いますよ、というナウシカ一派が生きておるわけで、まだまだ燃え広がる感じがする。一方マンガ版のほうはずいぶん後に清濁併せ持つ凡人ナウシカのテロにより、地球人類の将来は予測不可能な暗黒状態に、人間の予定調和のない自然な状態になって、ナウシカたちもまあフツーに自然に生きたみたいです、という風に終わる。このお話に対する私の理解が正しいのかということには自信はないが、とにかく作者がこのお話をできるだけ早く終わらせたかった、というのはよーく伝わってきたし、そこは正しいはずだ。老いたのかも知れないが、随分淡白な感じがして、ちょっともったいないなと思ったね。或いは、終わらせたくはなかったのかもしれないね。うやむやのまま、未完の大作にしたかったのかもしれない。
一方、劇場版の世界では焚きつけるだけ焚きつけ、火を消すのを忘れた危険な状態だったため、後にもののけ姫という、コントロール可能な凡人ナウシカをつかって、最初と同じことを繰り返し、これ以上はない、あの後何も起こらず平穏に生きたのだ、と世に悟らせることで、ナウシカのお話は劇場界でもゆるやかに消火された、と考えている。
宮崎駿という人は、自ら焚きつけた壮大な火事であった風の谷のナウシカを劇場とマンガ両方でなんとか消し止めただけで、もう仕事しなくてもいいくらいえらい。