実験禁止

私がフェミニストやらジェンダーやらの思想を見たのは、やっぱりテレビを通じてであり、それは田嶋とかいう、「男らしさの遺伝子はY側にはのっていない」ということの生きた証拠を見たときが最初であった。彼女は、今の社会がうまくいっていないのは、男のみ社会であるからで、多くの女性がその犠牲になっており、男女社会にしなければならない的なことを言っていたのだろうと思う。その時高校生だった私は、まあそうかも知れん、けど、かわいそうな人はたくさんいるが、それに気づかず女らしく今幸せに生きていると思われる、例えば私の母親などが、その田嶋が望む社会で、いったいどういう立場になるのか、とか考えているのだろうか、と思った。そして彼女は(彼女と)彼女の知っている人が、不幸とされているのは、女らしく生きている女が己の不幸に気付かず(馬鹿だから)、それを利用している男とグルになっているからで、実にけしからん、社会を変える!と言っているんだなと思った。
人の不幸を救うために、人の幸せ(その社会では不正に得たわけではない)を犠牲にする、持たざる者が持つ者を糾弾する、これっていつの世にもある階級闘争ってやつだよな〜、この人はでも、今回彼女がしようとしている階級闘争は、共産主義とかよりよっぽど世の中をかき回すものになるって気がしないのかな、そんなことできると思ってるのかね、とその時思い、ずっとそう思っている。もし本当にそうなるべきなのなら、無理に彼女たち一派がしなくても、自然に自然となっていくのではないか、千年後とか、半万年後とかに。無理やりそうしたいというのなら、そのあせっている理由は何なのか。彼女が今の彼女の幸せのために、生きているうちに幸せであると誰かに認定されたいということなのではないか、とにかく今。
無理にそうしたいというのは、ファシズムなのではないのか。今幸せだと思っている、頭がかわいそうな人たちを差別しているから、その幸せを否定できるのではないか。
この辺の思想、最近はジェンダーとかいう言葉で語られているのかな。知らんけど。所謂平均的な性差は、個体差に比べたら小さいので、社会は男も女も同等に扱うべきであるとかいう、知らんけど。まあ確かに私より足が速く、賢く、美しい女子など、それはそれはたくさんいるだろうし、その上、変態で淫乱な子もいるかもしれない。そういった子が私よりも優れているという評価を得て、より良く社会に扱われていても、全然構わない。だから長距離走は男子と女子は、同じ距離を走るべきだ、そこまではジェンダーに同意する。だけれどもジェンダーの望む世界がこの世に存在したことが、今まであったのかというところに、私は引っかかる。どんな世界だそれは。仮にそれは昆虫の世界で今も見られますと言われても、もちろん私は納得しない。わずかでも性差はある、わずかに違うことに意味があるから、違うことに意味を見だそうとするから、いま日本はこういった社会になったのだろうし、私はこの社会に他の世界にはもてない、差別的な愛着がある。
この前、私の故郷がジェンダー教育の先進地である、又は、であった、と聞いてびっくりした。その教育に私の小学校時代の恩師が係わっていたと聞いてまたびっくりした。彼女は入学式の日に、私の赤いほっぺたをみて、まあリンゴみたい、といった当時幸せな新婚先生だったのだが。彼女がその教育をどう進めていたか知らないが、心労がたたり、大抜擢で得た偉い職を辞したらしい。教育界のおエラ方は、彼女を権力闘争の捨て駒にしたのかもしれない、結局、よくある内ゲバだったのかもしれない。ただ一番迷惑を被ったのは、望む望まずにかかわらず、そんな流行病のような教育を受けた生徒たちではないのだろうか。(まあでも私が心配するほど、生徒全般は弱くないけどね多分、でも一部生徒は確実に影響を受けるだろう。)
私は、私の知っているところで、知りうるところで結果的にどうなるかわからない、結果的にどうとでもいえる、実験的な教育などしてほしくない。この感情には私の差別意識があるのだが、だからと言って、つまらん実験に私の子息を差し出すつもりはない。実験者は、その時最善だといわれる教育をしている、教育なんて実験の連続ですよ、というのだろうが、進歩的なものは結局おエラ方の内ゲバで方針が変わるものだろう。教育方針なんて、旧態然とした、何も進歩していないけど、どこでも再現可能なオーソドックスなもので結構だと思っている、あるのなら。